完成披露上映会!

2014年5月18日・与那国島上映で、全国キャラバン上映は無事終了。自主上映のご案内は、こちら

2013年7月4日木曜日

解説1 殿平善彦 ”朱鞠内との出会い”

殿平 善彦(一乗寺住職)

朱鞠内との出会い

私が北海道北部の山中にある朱鞠内を訪れてから40年になろうとしている。長い付き合いになった。
1976年9月初旬、友人の自家用車に便乗して出かけ、さわやかな秋晴れの朱鞠内湖で、ボート遊びを終えて湖畔の食堂で昼食を済ませとき、初老の女性に声をかけられた。「近くのお寺に寄ってほしい。見せたいものがある」と。1934年に建立された古いお寺、光顕寺の本堂にあったのは、100近くの赤茶けた古い位牌の群れだった。死者の名前は、日本人と朝鮮人があった。年齢は10代から50代、全員男性だった。死亡した時期が1938年から1945年まで。日本が戦争していた時期に重なった。
1938年から43年まで、朱鞠内では雨竜ダム・名雨線鉄道工事が行われ、200人以上の労働者が犠牲になった。朱鞠内湖は雨竜ダムの堰堤にせき止められてできた人造湖なのだ。私たちの前に現れた位牌は、戦争中の朝鮮半島から強制的に連行されてきた朝鮮人と日本人タコ部屋労働者の奪われた命の痕跡だった。
雨竜ダム工事の記憶を語る人は、重労働と僅かな食事、逃亡と見せしめのリンチが横行し、死者は共同墓地の奥の地下に埋められていったと証言した。案内された山中の埋葬現場は熊笹に覆われていた。
1980年から、笹やぶの下に埋められてきた犠牲者の遺骨発掘がはじまった。84年まで、5回の発掘で、16体の遺骨が発見されたが、力尽きた私たちは、すべてを掘りきれないまま、発掘はしばらく見送られた。

東アジア共同ワークショップ

発掘が中断してから5年後の1989年、若い韓国人が訪ねてきた。当時アメリカの大学院生だった、文化人類学を専攻する鄭炳浩(チョン・ビョンホ)さん。彼との出会いが、朱鞠内をめぐるドラマの新しい幕開けになった。
韓国で民主化運動をたたかった彼は、強制連行の歴史にも関心を示した。朱鞠内の笹やぶの下に、発掘出来ずに残っている日本人と朝鮮人の犠牲者の遺骨があるはずだと告げると、彼は「日本と韓国、在日の青年・学生たちの共同作業で発掘しましょう」と提案した。
約束から8年後、1997年夏、韓国から44人、在日韓国朝鮮人12人、アイヌ、日本人40人、スタッフを入れると200人を越える参加者で、強制労働犠牲者を発掘する「日韓共同ワークショップ」が開催された。9日間の合宿で4体の遺骨を発掘し、葛藤を経験しながら離れがたい友情を育んだ。それから15年間、夏は日本か韓国で、冬は朱鞠内で、若者たちは集い続けてきた。

未来へ

2001年からは朝鮮大学生が参加して、名称は「東アジア共同ワークショップ」となり、延べ2000人を越える若者たちがワークショップを経験した。
最初のころの青年は中年になり、大人の参加者は老人になった。恋愛し結婚したカップルには赤ちゃんができ、懐かしい人が何人も亡くなった。そして、新たな参加者が生まれ、多くの活動家が育った。
東アジアは今、領土ナショナリズムに席巻され、日本国内では在日韓国・朝鮮人へのヘイトクライムが横行している。北朝鮮をめぐっては、アメリカのプレゼンスと共に、新たな冷戦の様相さえ呈している。植民地支配と分断の歴史に彩られた東アジアは、大きな分岐点に差し掛かっている。
偏狭なナショナリズムとレイシズム、分断固定化の時代に組み敷かれるのか、平和の共同体を目指す希望の歩みを続けられるのか。
東アジア共同ワークショップは、アジアの危機を越えるアジアの市民の確かな信頼と友情を育てる場だ。ワークショップに集う若者たちのイニシアチブこそが、新たな時代を開いてゆくに違いない。

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殿平善彦(とのひら・よしひこ)
1945年生まれ 
北海道深川市の浄土真宗本願寺派一乗寺の住職
空知民衆史講座代表 強制連行・強制労働犠牲者を考える北海道フォーラム共同代表
70年代から北海道幌加内町朱鞠内、深川市鷹泊などの戦時下タコ部屋労働、朝鮮人強制連行の調査・研究、発掘と遺骨返還に取り組む。

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